2014年9月28日日曜日

何もしない優しさ

今日は町内の敬老会に演奏をかねて出席した。途中までしか居られなかったけれど、とても和やかで楽しい敬老会だった。長い間、社会のために尽くしてきた高齢者を敬い、長寿をお祝いする日として国民の祝日になっているが、今日のような町内で行われる祝賀パーティーでは対象者(私の住んでいる町内では75才以上の方を御招待)の出欠は自由なので、参加したい人が出席ということになる。

この日本独特の文化の趣旨はとても良いことだとは思うが、人生50年と言われた時代から考えると長寿国になった日本はいま、女性に続いて男性の平均寿命も80才を超えたという統計が出たそうで、医療の進歩などもあって長生きの時代になってきているとともに、元気でまだまだ現役で仕事をしている人も多く、昔に比べると10才は 若くなっていると思っている。高齢者の年齢(65才)をちょっとずらしてもいいのでは?

また、敬老の日だからといって、国民行事だからといって相手の気持ちを考えずお祝いすることでこちらの気持ちを押しつけてしまってはいないだろうか?長い人生を生きてきた先輩として尊敬し敬う気持ちは大事だが、こちらの一方的な気持ちが、もしかしたらデリカシーのない行為になり、人によってはお祝いされることに抵抗を感じる人もいると思うから、単に敬老の日だから、 ハイ!お祝いしましょ。というのはどうなのでしょう。つまり無意識にお年寄りという前提でお祝いすることになるわけで、対象者には個人差があると思っている。生き方が多様化しそれに伴って考え方も様々になってきているという現実。

色づいてきたヘンリーツタ

80才を過ぎた義父は仕事にプライドを持ち、今も元気に仕事をし、いろんなことに興味を持ちじっとしていることがない。敬老の日だからといって今まで特別にお祝いをしたことがない。その気持ちは大切だが、むしろ普段から気にとめ、たまに一緒に食事をしたり、ときどき訪ねたり、遠くにいる孫から電話があったり、そんなさりげない日常を過ごすのが自然で良いと感じている。そして、父の日や誕生日にはささやかながらお祝いをする。だからとりたてて「敬老の日」はお祝いはしない、何もしない優しさもあっていいのではと思っている。大切に思っているという一方的な気持ちの押し売りになってはいけないと感じるのである。

今は亡き私の大叔母はかつて老人会の代表(会長)を依頼された時、きっぱりと断り生涯婦人会の代表として亡くなるまでオシャレをし口紅をつけ、凛としたステキな女性だった。

そういう私も数年後には65才。高齢者の仲間入りをするが全然実感がわかない。
とりあえず、今の自分に出来ることがあって、家族が健康で暮らせることが幸せに繋がっていくと思っている。日々の暮らしを大切にいい時間を過ごしていきたいものだ。

敬老会で頂いてきた紅白のお餅
牛乳と頂くのが好き!

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